最終意見陳述書(2017/12/21)

国循サザン事件-0.1%の真実-無罪を訴える桑田成規さんを支援する会Nです。

2017年12月21日13時30分〜17時00分、大阪地方裁判所第603号法廷にて、国循官製談合事件(「国循サザン事件」)の第34回公判が行われました。

この第34回公判で結審となりました。

前回の速報に続いて、法廷で桑田さんが最後に伝えた「最終意見」を、桑田さんご自身のご意向により全文掲載させていただくことになりました。

両弁護人に続き、桑田さんご自身から伝えられた約10分間の「最終意見」。この中に込められた思いが、伝わることと思います。

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国循サザン事件ー0.1%の真実

本日の第34回公判にて,私が述べた最終意見は以下の通りです(桑田)。

 

1.はじめに

西野裁判長、川村裁判官、久保裁判官、本公判の審理を終えるにあたり、私に発言の機会を与えていただきありがとうございます。

私はこの事件で、人生で初めて被告人という立場を経験しました。このような立場になるまで、私はまさか自分が刑事事件で訴追されることになるとは夢にも思っていませんでした。むしろ、今思えば愚かなことに、自分はその対極にいる一般市民であり、刑事事件で裁かれる人たちとは無縁の生活を送っているのだと思い込んでいました。そして、かりに無辜の人が起訴されたとしても、それは正当な公判の手続きによって無実が明らかとなるのが当然であって、検察官あるいは裁判官も人間であるのだから、いわゆる冤罪は、まれに起こる単なる《ヒューマンエラー》によるものだろうと考えていました。私は、世間でよく言われる《刑事事件の有罪率は99.9%である》という言葉も、このような文脈で理解していたのでした。

ところが、いざ自分が当事者となると、その現実は私の想像とまったく異なるものでした。私の取り調べを担当した広瀬検事は私にこう言いました。

《真実》というのは、過去に起こった当事者間の出来事であり、第三者にはわかりようがない。だから、私たちは、自分たちが集めた証拠から、こういうことがあったのだろうという《事実》を確定させる。その《事実》に基づいて、あなたをどう処分するかを決めるのだ。この判断のプロセスは、私たち検察官も裁判官も同じだ。だから、私たちがあなたを有罪と判断する以上、裁判所もあなたを有罪とする。

広瀬検事の言葉のうち、前半部分は事実認定のことを指しています。後半部分は、検察官の思考はすなわち裁判所の思考でもあると断じています。

2.事実認定について

まず私が驚いたのは、広瀬検事のいう事実認定の考え方は、現代日本における法の実務そのものであるという現実でした。

私は、医療情報に関する実務家であるとともに、研究者になるための基本的な教育を受け、博士号を授与された科学者のはしくれでもあります。そこで、一科学者としてこの事実認定の手法を見るとき、事実認定はその運用次第で科学的にきわめて危うい側面を含むことに気づきました。すなわち、冤罪につながる判断の誤りが、偶発的に発生する単なる《ヒューマンエラー》ではなく、事実認定というメカニズムによって発生する《系統的エラー(systematic error)》に起因する可能性がある、ということです。

以下に、私の目からみた事実認定のリスクについて述べます。

事実認定とは、《事件の内容である事実関係を、証拠や経験則により確定すること》です。この《確定》という言葉は、あたかもその《事実》が、

A⇒B(AならばBである)という仮説が真であるか偽であるか

のような決定論的なプロセスを経て決定されたかのような印象を与えます※。

※ここでいうAは《証拠》あるいは《事実》であって、Bは経験則によってAから導こうとする《事実》=結論に相当します。

しかし、この《確定》に至るプロセスは、科学的には《推定》そのものです。よって、《事実》の真偽は、《0か1か》のような決定論的なものではなく、確率論的に

A⇒Bという仮説が真である確率は○○%である

のように、確率、すわなち《確からしさ》をもって決定されるものなのです。

一般に、自然科学においては、この《確からしさ》が95%あるいは99%以上であれば、仮説は正しいと判断するのが常識です。つまり、誤りの確率が1%あるいは5%以上であれば、仮説が正しいとはいえません。

さて、上記では仮説が正しいかどうかを問題にしており、結論としてのBが成り立つか《=正しいか》《=事実といえるか》を論じていません。A⇒Bという仮説において、《Bが正しい》というためには、2段階の推定が必要です。1つめは、そもそも前提としてのAがどの程度《確からしいか》という推定、2つめは仮説A⇒Bがどの程度《確からしいか》という推定です。これは、いわゆる三段論法に相当するといえばわかりやすいと思います。

ここで、重要なことは、推定を重ねて行うこと-以下では《多段の推定》といいます­-によって、誤りのリスクが増大するということです。

具体例で説明します。前提Aをもって事実Bを得るためには、①前提Aが正しく、かつ、②仮説A⇒Bも正しくなくてはいけませんから、例えば、①②それぞれの推論の誤りが、自然科学の常識範囲である5%であったとしても、全体の誤りは9.75%にもなります《(1-0.95×0.95)=0.0975》。そのため、自然科学においてBが事実であるということはできません。

ここで、事実認定について、弁論でも引用した最高裁裁判官の補足意見を示します《最高裁平成22年4月27日判決(刑集64巻3号233頁)、藤田宙靖裁判官補足意見》。

「仮説」を「真実」というためには、本来、それ以外の説明はできないことが明らかにされなければならないのであって、自然科学における真実の発見と刑事裁判における事実認定との間における性質の違いを前提としたとしても、少なくともこの理論上の基本的枠組みは、後者にあっても充分に尊重されるのでなければならならない。

ここでいう《自然科学における真実の発見》には、上述の《「仮説」を「真実」というためにはその誤りが1%または5%以下であること》が含まれます。当然ながら、《確からしさ》を数値的に処理できない法の判断において、このルールを厳格に適用することは不可能です。しかし、最高裁のいう《尊重すべき理論上の基本的枠組み》の一つとして、裁判官には、次に示す点をご考慮いただきたいと考えます。

  • 事実認定によって確定した《事実》は、実際には《推定》にすぎず、一定程度の誤りを含む可能性があること。
  • 最も単純なA⇒Bという事実認定であっても、その実態は《多段の推定》であること。
  • 《多段の推定》により判断を誤る可能性が高くなるということ。自然科学よりも緩い条件、例えば前提Aと仮説A⇒Bがともに7割程度の《確からしさ》で成り立つだろうと判断したとしても-それは個々の事象だけを見れば必ずしも誤った判断ではないとしても-、Bが成り立つ《確からしさ》は5割を切り《0.7×0.7=0.49》、むしろ半分以上の《確からしさ》でBは誤りであることになること。

以上の点について、より具体的にイメージしていただくために、検察官の論告から例を挙げて説明をしたいと思います。

検察官は次のように主張します《論告8頁》。

そのような職務上の関心がある被告人桑田の立場なら、開札当日の朝になってやっと届いたと思った以上、業者である被告人高橋に送るに際して、その内容が入札の公平に資するものか、被告人高橋の要望に応えるようなものかなど、きちんと確認するはずである。

まさにこれは《多段の推定》に他なりません。検察官の主張する論理には、大きくみても、2つの前提条件と1つの仮説が含まれます。

①前提条件1:桑田にはそのような職務上の関心がある。
②前提条件2:開札当日の朝になってやっと届いたと思った。
③仮説:桑田の立場であれば、業者に送るに際して、きちんと確認する。

①②は証拠に基づく検察官の推論ではありますが、本来分かりようのない私の内心に踏み込んだ推定を行っています。③は証拠もなく、一般社会生活における漠然とした習慣を本件に適用しようと試みた仮説です。①②③のいずれもが《確定的》ではなく《誤り》である可能性があり、3段階の推定を重ねることにより、《誤り》の可能性は増大する、ということに留意していただく必要があります。

また、検察官は、意図的に一部の前提条件を明示せずに仮説を提示する場合もあります《論告2頁》。

被告人桑田は,(中略)24年度版体制表等を中島雅人契約係長から受領し,それらの資料にチェックまで入れて目を通していたところ,前記PDF化等の作業をして被告人高橋に本件書面を送信したのは,その3日後の月曜日(同月19日),つまり翌営業日なのであるから,前記作業の過程で,「金曜夕方に見た24年度版体制表と一緒だ。」と気付かないとは考え難い。

ここでは、検察官は、前提条件として、《資料にチェックまで入れて》という有罪方向に働く供述を取り入れる一方で、資料受領時の状況、たとえば《短い時間しか資料をみていない》という無罪方向に働く供述を無視しています(なお、これらはいずれも私自身の供述によるものです)。検察は、《資料の同一性に気付かないとは考えがたい》という結論を得たいがゆえに、みずからの仮説の提示の際に、無罪方向に働きうる前提状況を意図的に省略していると考えられます。

このような検察の立証姿勢は、上述の最高裁が述べる《(自然科学における)理論上の基本的枠組み》に反するものです。もし検察が、真に真実を追究するつもりがあるのであれば、

  • 事実の判断に必要な、すべての前提条件を偏りなく抽出すること
  • これらの事実を、有罪方向、無罪方向にかかわらず適切に評価し、提示すること

が必須であるはずです。しかし、現実には、検察は《有罪立証に必要な証拠だけを提示する》ことが許されています。このような状況では、検察の主張する結論の《確からしさ》に重大な懸念が生まれ、本事件だけでなく、他の事件においても《冤罪の要因となりうる系統的エラーが起こっているのではないか》と私が考えるのも当然のこととご理解いただけると思います。

したがって、裁判官には、このように《隠された》前提条件にも十分目を配っていただき、公正な事実認定をしていただきたいと思います。

3.検察の真実究明への姿勢と驕り

冒頭に述べた広瀬検事の言葉のうち、次に私が驚いたのは、《真実》に向き合おうとしない検事の消極的な姿勢でした。《第三者には真実はわかりようがない、だから慎重に事実を検討しなければならない》と謙虚になるのならともかく、検事は、《真実はどうあれ、証拠上有罪にできる事実がそろえば有罪である》《早い段階から認めていればこんなことにはならなかった》《本当のことを言え》と無実を訴え続ける私を責め立てたのでした。

すでに述べた通り、検察の論告に《真実の追究》の姿勢を見て取るのは困難です。そこから類推するに、広瀬検事のこのような姿勢-真実よりも有罪になりうるかを優先する姿勢-は、検事個人によるものではなく、検察組織そのものの体質に起因するものであるように思います。

私はこの事件の真実を知っています。しかるに、検察、しかも検察のなかでも最も優秀とされる特捜部が、なぜその真実にたどり着けなかったのでしょうか。

最も大きな原因は、初動の誤りです。すでに弁論で述べられたとおり、検察の最初の標的は私と高橋さんの贈収賄でしたが、結局、捜査は思うように進まず長期化しました。もし検察が、早期の段階から贈収賄ではなく、入札手続きの適正性に絞って慎重に捜査を進めていれば、おそらくもっと広い視野で関係者の話を聞き、入札制度とその運用の実態、そして国循においてこれまでどのような業務が行われてきたかを慎重に検討することができたでしょう。

この事件を含む一連の《いざこざ》の根源は、複雑かつ厳格化する入札制度に対して、国循におけるその手続きが適正に行われなかったことにあるのは明らかです。しかし、私は、国循の事務方が悪いと言っているのではありません。これは制度運用の問題であり、組織体制の問題でもあります。

日本の入札制度、とくに政府調達に関わるものは非常に複雑です。当然、その実務にはさまざまな手続きが含まれることを考えると、なにが適正で、なにが適正でなかったかを判断するのに、専門家が不在の刑事裁判という場は、あまりに不適切であるように思います。本来、このような《いざこざ》は、内閣府において取り決められた政府調達苦情処理体制(CHANS: Office for Government Procurement Challenge System)という《行政》の枠組みのなかで解決されるべき問題です。この事件の根幹にある政府調達の趣旨を正しく理解することなく、またその手続きの懈怠がいかに《異常な事態》であるかを度外視したまま、本来、制度運用や組織の問題であるところの責任を、個人の刑事責任という形で訴追し司法の場に持ち込むことは、はたして本当の正義なのでしょうか。そして、日本社会は、この刑事裁判を経て、入札制度のあるべき運用について有効な教訓を得ることができるのでしょうか。そもそも、政府調達制度という森を見ず、国循の入札という木だけを見ていて、《真実》は究明されるのでしょうか。

検察が《有罪》へのこだわりを捨て、《真実の究明》を第一としていたのなら、より大きな視点からこの問題を捉え、容易に真実にたどり着いたものと思います。しかし、論告から垣間見える検察の立証姿勢を見るに、それは望みえない夢物語なのかもしれません。

しかし、裁判官には、検察官のような《どうせ真実は知りえない》《有罪に見えるものは有罪にする》という考えではなく、この事件の背景にあるさまざまな事実に目を向け、あらためて大きな視点からこの事件を捉え、《真実の追究》をあきらめてないでいただきたいと切に願います。

さて、裁判官は、広瀬検事の《判断のプロセスは検察官も裁判官も同じ》《私たちがあなたを有罪と判断する以上、裁判所もあなたを有罪とする。》という言葉をどのように受け止められたでしょうか。

私は、これは検察官が《自分達が裁く》《裁判所は不要》と言っているのと同じであり、司法を冒涜し、また司法の独立を脅かすきわめて危険な考えだと思います。私は、裁判官が、1年8ヶ月におよぶ公判のなかで見聞きされたこと、感じられたことをもとに、誰からも束縛されず、また誰にも忖度することなく、真の社会正義はなにかという観点から、公正な判断をされるものと信じています。

 

4.記憶喚起について

ここで、論告のなかで、1点、気になる箇所がありましたので、意見を述べたいと思います。すでに弁論でも述べられている点ではありますが、改めて強調しておきたいと思います。

被告人桑田は,開札日の朝の出来事について弁護人から尋ねられた際,細部にわたって逐一具体的に供述しているのに,本件書面発見時の状況,しかも本件書面を置いた者や置いた趣旨の特定に関する部分については記憶にない,ということ自体が不自然である《論告4頁、括弧書き部分は省略》。

まず、重要なのは、5年以上前の平成24年時点の出来事を事細かく覚えていることの方が不自然ということです。その時点の出来事は、私にとって特別なことではなく、単なる日常生活の一コマにすぎません。また、この場面は、私の本来業務とは関連がうすくそれを記憶しておく契機も理由もありません。当時、このような一連の行為が後日問題になるかもしれないと考えでもしないかぎり、これを記憶することはありえないはずです。

私が公訴事実1に関する入札の開札日(平成24年3月19日)の朝の出来事を詳しく供述できたのは、検事の任意開示証拠に電子メールやパソコン内のファイルがあり、その内容やタイムスタンプを手がかりに記憶を喚起することができたからです。なお、私が中島契約係長から入札に関連する書類を受け取った平成24年3月16日の状況についてもまた詳細に供述することができたことも同様の理由によります。

公判でも供述したとおり、私は当時、電子メールを一時的なメッセージのやりとりと捉えており、それを長期間保管するという仕事上の習慣がありませんでした。よって、自分の所有していたパソコンには該当するメールが残っておらず、証拠開示によって初めて知りえた他者のメールの情報を手がかりに記憶を喚起することもありました。

他方、電子メールやファイルに手がかりが見つからない場合は、記憶を喚起することがきわめて困難でした。上記に引用した論告における平成24年3月19日の朝の書面発見時の状況はこれに相当します。

以上のことから、記憶喚起の手がかりになるものがあるかどうかで、記憶に基づく供述内容に濃淡が生まれるのは至極当然のことであって、なんら不自然ではありません。

 

5.私のこと

平成26年2月に、かつての私の職場であった国循に大阪地検特捜部の強制捜査が入ったとき、私は46歳でした。平成26年4月には、私はそれまで務めていた情報統括部長の職を解かれ、実質的に仕事を失いました。その後は、この裁判が長期化するなかで、平成28年8月をもって国循との有期雇用契約が終了し、当然のごとく契約が更新されることのないまま、私は完全に失職しました。そしてこの裁判が結審しようとしている現在、私はすでに50歳となっています。

人生において、40代後半から50代前半にかけての時期は、どのような意味があるでしょうか。私にとって、それは最も働きがいのある仕事、地位、立場を手に入れ、自ら培ってきた能力や経験を存分に活かしてその仕事に没頭することのできる、まさに人生の円熟期になるはずの時期でした。しかし、いまや、それをすべて失い、取り戻すことができなくなった苦しみは何に例えようもありません。また、これまで苦労して私を育て、私が成人してからは暖かく私を見守ってきてくれた両親になんとお詫びしてよいのかわかりません。

私の両親は、私に人並み以上の教育環境を与えてくれました。家庭には経済的な余裕はほとんどなかったと思いますが、幸運なことに、私は一流の教育を受けることができ、経済的には苦しい時期がありながらも、社会人を経て、最終的には博士号を取得することができました。

私は、大学院の入学試験で、教官から尋ねられた言葉を今でも覚えています。

あなたは、学位を取ったら、どのような道に進みたいのですか。

私は、このように答えました。

これまでずっと国公立の教育機関で教育を受けてきました。いわば国の税金で教育を受けさせていただいたようなものです。ですから、大学院修了後は、国に貢献できる仕事がしたいです

その後、私は首尾よく国立大学の職を得て、その後、国循を退職するまでずっと公的機関で仕事をしてきました。私にとって仕事を続けることはすなわち国への恩返しのつもりでした。その私が、その国の権力によって、いわれのない嫌疑で逮捕され、訴追され、裁判にかけられている現実を考えると、私はおそろしいほどの無力感に苛まれます。《いったい、自分の人生はなんだったのだろうか》と。

日本では、刑事裁判にかけられたという事実だけで、その人の社会的信用が失われるのが実情です。とりわけ、被告人が罪を認めず公判で全面的に争うと決めた場合、それは社会的に死刑宣告を受けたも同然です。長期化する裁判による失職に伴う生活の困窮、世間からの誹謗・中傷による本人と家族の精神的負担などに耐えていかなければなりません。そして、それに耐えうる経済力と精神力がなければ、そのような選択肢を取ることすら許されません。現実に、《子どものため、家族のため、冤罪であっても、罪を認めて早く裁判を終わらせよう》と考え、不本意な有罪判決を受ける数多くの人々がいることに、はたして検察官そして裁判官は思いを馳せることがあるでしょうか。

その点、私はまだ幸運でした。私の両親-残念ながら父親は公判期間中に亡くなってしまいましたが-、家族、親戚、そして私の無罪を信じて支援してくださる方々、さらには私が事件に巻き込まれてからも、私を信頼して仕事を任せて下さる方々、雪冤を果たすため熱心に弁護活動に取り組んでくださる弁護人の先生方、いずれもが私の支えとなり、私はこれまでの裁判で闘い続けることができました。私は、不幸にも冤罪に巻き込まれながらも闘うことを諦めざるをえなかった多くの人たちの無念を胸に、最大限の知力、体力、精神力を注ぎ込みこの裁判に臨んできました。私が冤罪に巻き込まれることがなかったら、現代の司法を取り巻く多くの矛盾、そしてそれに苦しむ多くの人たちの存在に気付くことはなかったでしょう。このことを知っただけでも、私は幸せなのかもしれません。

 

6.おわりに

最後に、堤検事に一言申し上げたいと思います。あなたは、かつてこの事件の捜査を指揮し、私と高橋さんを起訴した主任検事であり、かつ、今年度からこの公判をも担当することになった検事です。あなたがどのようないきさつでこの場に戻ってこられたのか知るよしもありませんが、おそらく、あなたが捜査した時点に描いておられた事件の《姿》と、公判が進行するにつれ明らかになってきた事件の《本来の姿》に相当の乖離があり、これをなんとか《元の姿》に戻すために、最も事件をよく知るはずのあなたが呼び戻されたのではないでしょうか。

それが功を奏したかどうかはともかく、私は、あなたが最後に直接この公判を担当されたことをうれしく思います。それは、捜査時点ではあなたが知り得なかったこの事件に関するさまざまな《事実》を、あなたに知っていただけたと思うからです。

堤検事には、検事を目指しておられた頃の意気込みを思い出していただきたいと思います。法曹の道に進み、検事となるには、それ相応のご苦労をされたことと思います。あなたが検事を目指したのは、おそらく、みずからの手による社会正義の実現を望んでおられたからなのではないでしょうか。

しかし、そのためには、あなたは真の意味で《真実の究明》を実践し続けなければなりません。すでに述べたとおり、あなたは検事として、事件に関係するすべての《事実》を抽出し、有罪方向・無罪方向偏りなくそれらを評価することが使命であるはずです。

どうか、あなたが大阪地検特捜部の主任検事として知り得なかった《事実》をもういちど冷静に評価してみてください。そして、どうしてあなたがそこにたどりつけなかったのか、よく考えてみてください。さらに、そうして得られた知見を、ぜひ仲間と共有していただき、あなたがた検事の仕事に活かしてください。検察庁全体から見ればほんの少しの変化かもしれませんが、その変化に私が貢献できたとすれば、この上ない喜びです。期待しています。

以上で、私の最終陳述を終わります。

裁判官の方々には、私に意見陳述の機会を与えてくださったことに対し、あらためて御礼申し上げます。

平成29年12月21日

桑田成規